/
217.txt
82 lines (58 loc) · 3.45 KB
/
217.txt
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60
61
62
63
64
65
66
67
68
69
70
71
72
73
74
75
76
77
78
79
80
81
82
[1]
[[日本]]の[[昭和時代]]は[[日時制度]]にとっても激動の時代でした。
* 昭和への改元
[3] 大正15年、[[昭和]]に[[改元]]されました。
[SEE[ [[昭和]] ]]
* 皇紀
[2] [[昭和時代]]前期には[[皇紀]]がよく使われるようになりました。
[SEE[ [[皇紀]] ]]
[5] [TIME[紀元2600年 (昭和15年、西暦1940年)][year:1940]]
には様々な記念事業が行われ盛大に祝福されました。 [SRC[>>4]]
[7] [[日本軍の制式名称]]にも[[昭和時代]]に入ってから[[皇紀下2桁年]]が用いられるようになりました。
[[明治]]から[[大正]]、[[昭和]]と[[改元]]が続き、
[[元号年]]番号だけでは距離が近すぎて不便なため[[昭和]]への[[改元]]直後に改められたと考えられます。
[SEE[ [[日本軍の制式名称]] ]]
-*-*-
[6]
[[皇紀]]や[[昭和]]の[[元号]]は、
[[大日本帝国]]の[[領土]]やそれに準じる地域だけでなく、
[[満州国]]や[[中華民国]]など同盟国に駐在する[[日本軍]]はもちろん、
[[南方占領地]]の[[日本軍]]やその[[軍政]]下の現地住民によっても用いられました。
[8] 具体的には[[南方占領地]]旧蘭領[[東インド]] (現在の[[インドネシア]])
や[[南方占領地]]旧英領[[マラヤ]]・[[昭南市]] (現在の[[マレーシア]]、[[シンガポール]])
の[[新聞]]などで使われた記録が残っています。
[[インドネシア]]の独立宣言にも[[皇紀]]の[[日付]]が記載されました。
[SEE[ [[マレーシアの標準時]]、[[インドネシアの標準時]] ]]
[REFS[
- [4] [CITE@ja[紀元二千六百年記念行事 - Wikipedia]] ([TIME[2019-06-13 21:59:16 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%85%83%E4%BA%8C%E5%8D%83%E5%85%AD%E7%99%BE%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%A1%8C%E4%BA%8B>
]REFS]
* 連合国による干渉
[9]
[[第二次世界大戦]]の[[終戦]]後、
[[連合国]]は[[日本国]]内の諸制度に介入しました。
[[日時制度]]もその例外ではなく、
様々な変更を余儀なくされました。
[13]
[[日本政府]]は旧[[皇室典範]]の[[改元]]に関する条項にかわる新しい[[法律]]を制定しようとしましたが、
[[GHQ]]
の干渉により断念しました。
[SEE[ [[元号法]] ]]
[14]
しかし [[GHQ]] も[[西暦]] ([[キリスト紀元]])
の利用を求めることは[[信教の自由]]に反するとして、
[[日本本土]]においてこれを強制することはできませんでした。
[15]
ただし事実上の[[米国]]領土となった[[南西諸島][米領琉球列島]]と[[小笠原諸島][米領小笠原諸島]]、
事実上の[[ソ連]]領土となった[[樺太]]、[[千島列島]]、[[北方四島]]では、
[[西暦]]が公式な[[紀年法]]として用いられました。
[[元号]]の利用は憚られ、ごく一部で限定的に使うことができるのみでした。
[SEE[ [[南西諸島の日時]]、[[小笠原諸島の日時]]、[[北日本の日時]] ]]
[12]
[[皇紀]]は[[戦争]]と結び付いた不適切な[[紀年法]]であるというイメージが植え付けられ、
次第に使われなくなりました。
[[歴史]]の[[教科書]]も[[皇紀]]でなく[[西暦]]を使うようになりました。
* 元号法
[SEE[ [[元号法]] ]]
* 平成への改元
[SEE[ [[平成改元]] ]]
* メモ