Skip to content
New issue

Have a question about this project? Sign up for a free GitHub account to open an issue and contact its maintainers and the community.

By clicking “Sign up for GitHub”, you agree to our terms of service and privacy statement. We’ll occasionally send you account related emails.

Already on GitHub? Sign in to your account

いなうらゆうまはここにいた 2019-03-10 #718

Open
YumaInaura opened this issue Mar 9, 2019 · 0 comments
Open

いなうらゆうまはここにいた 2019-03-10 #718

YumaInaura opened this issue Mar 9, 2019 · 0 comments

Comments

@YumaInaura
Copy link
Owner

YumaInaura commented Mar 9, 2019

プレーンな脳でメモする。

朝、目覚めたばかりのときのアイディアをメモしておきたい。ひとつの仮説がある。実験だ。朝のほうがクオリティの高いアイディアを思いつくのではないか。重要度の高いアイディアを思いついているのではないか。無条件に信じても良いアイディアなのではないか。そして夕方や夜にネタ切れを感じたら、そのメモを見返せば、ネタには困らないのではないだろうか。アイディアというのは僕の場合、具体的にはTwitterやブログに書きたい内容のことだ。これがYouTubeで撮影したいネタのこともあった。プログラミングで実現したい小さな機能であることもあった。とにかく朝起きたばかり、バスタイムが終わったぐらいの時に思いついたことを、何か条かメモしてみる。あとで思い出せるぐらいの書き方であれば何でも良い。今日は人生とバナナ、つまらないブログ、スターバックスに1000万円使った話、などを書かれている。これが朝にニュースなどをじっくり見たり、Twitterをじっくり読んでしまうと、プレーンな脳の状態でのアイディアリングにならない。影響されているのは自分の夢と昨夜見た夢だけ。そんな状態を作っておきたい。ということで、また実験だ。

Twitter / Zen

彼氏彼女の事情の主人公は本当に馬鹿だ。

誰にでも態度を変えない男がいる。生徒会長だ。第一巻を参照。僕のリアルで見たことがある。誰にでも態度を変えない人。独特のペースを保つ男。もちろん親しい人ではない。人生で見かけたことがあったというだけだ。マイペースなのは良い。ペースの問題ではない。一体何が嫌なのだろう。マイペースな人はマイペースに人間関係を作る。マイペースに人を見る人ならば良い。その人はマイペースなりに、人に対して態度を変えているはずなのだ。だけどその独特のペースの男は、彼氏彼女の事情の男主人公みたいに、人に態度を変えない。かと言ってマザーテレサのような博愛の人物でもない。人によって態度を変えるのが良いか悪いかという二元論には落とし込みたくない。何か言葉にできていない軸があり、それを僕がつかめていないだけだ。彼の喋り方が僕は嫌いだと感じた。誰にでも平等なのではない。自分がペースを崩さないということに対して自己陶酔しているというか、そもそもこちらを見ていない感じがした。エゴイズムのかけらがポロポロとこぼれ落ちている気がした。そうだ、ペーシングだ。彼はペーシングをしていなかった。相手にペースを合わせるということをまるでせず、適切な声量、トーン、同情、共感などを発揮することなく、常に自分のトーンを保つことを、優先しているかのようであった。マイペースな人はマイペースな人なりに、相手に合わせようとすることだってできる。ただあまり速いスピードだと、ついていけないだけだ。スピードがとても速い人は、のろい人を見るとイラッとするけれど、努力すれば速度を落とすことだって出来る。たとえイラッとした態度だって、それは相手を人間としてみているという、人間的な証拠だ。だけど僕は、悪いマイペースを保つ彼のことを、どうしてもうまく咀嚼できなかった。もうこのことが、1ヶ月に1度は一瞬だけ、頭の片隅に浮かび、言葉にできず、ただもどかしさを感じていた。もうずいぶん前に会った人のはずなのに、不思議だ。ところで禅の達人は相手にペースを合わせるのだろうか。自分の呼吸を保ちながらも、ビギナーである若いものが、咀嚼できるかギリギリのラインを狙って、言葉を発したりするかもしれない。ヨーダは若者の10年先、20年先を見据えて、今は咀嚼の難しい言葉を、あとで投げかけているかもしれない。先を見越している。人の未来に対してコミュニケーションを取っている。そうだ、その男になかったのはコミュニケーションの不在だ。態度云々の話ではなく。態度は単にコミュニケーションが存在しないことを覆い隠すフィルタでしかない。その男は自分自身のコミュニケーション不在をふさぐかのように、ペースを崩さず、態度を変えず、一切のトーンも変えない、喜怒哀楽がないというよりは、その中のほんの少し自己恍惚とした、一定の色しか持たない、そんな喋り方を続けていた。彼にないのはコミュニケーションだ。あらゆる形の非コミュニケーションの、バリエーションの、その一種類だったのだ。どうやら、長年の謎が解けた。マザーテレサは態度を変えず、人とコミュニケーションする。禅の達人は呼吸を変えず、人とコミュニケーションをする。過去も未来も見据える。時空を超える手段だ。僕が喋り方が嫌いだった、その男は、態度を変えずに、コミュニケーションもしていなかった。誰かと喋っているようであって、自分自身と喋っているだけだった。いやもしかしたら、自分自身とさえ喋っていなかったのかもしれない。内心にアクセスする方法を知っていたとも思えない。ところでこれはただの偏見と妄想による、仮想敵を作り出しての悪口だ。フィクションのようでフィクションでない少しだけフィクションな‥。もしこの文章を奇跡的に見つけて、俺のことかと思うような人がいたら、ごめんなさい。この文章は確実に、あなたのことではありあせん。

Twitter / Zen

孤独と静寂の境界線。

焦らなくて良いよなぁと思う。たとえばMacBookでなにか作業をするとき、Twitterをいちどでも開いたら、通知やらリプライやらタイムラインを絶対に見て、何十アクションものコストが必ず消費される。ネットサーフィン的な時間消費、エネルギー消費は何に対しても必ず起こる。だけどたとえば1個のブログを書き終わった時、次にGoogleChromeさえ開かなければ、注意力の無限消費はおこなわれない。次に何をするか。じっと目を閉じて仮眠するか、別のカフェに移動するか。慎重に選んで良い。なぜなら、じっとしている限り、エネルギー消費はそれほど多くはおこなわれない。自分の思考のノイズによる消費や、自然なバイオリズムによるエネルギーの上下や、周りの音や光による消費はあるかもしれないけれど。だけど、テレビやiPhoneやGoogleChromeを開かなければ、MacのiTunesでAppleMusicのForYouに出てきたアレサ・フランクリンのI Say A Liitle Prayerを聴きながら、まだ静寂の世界の中にいることが出来る。この小さな海から出ずに、まだ静けさを楽しむ。静寂を楽しみたい時と、喧騒を楽しみたい時がある。自分の家に帰っては、また、世の中に歩き始める。Google検索をしたくなった時は少しだけ危ない。Google検索だけが出来て、他のことは何も出来ないアプリでもインストールしようか。今は休日なのに、珍しく自宅で過ごしている。朝のスターバックスであまりにも眠気を感じたので、朝の間に帰ってきたのだ。iTunesが、曲が切り替わるたびにMacの画面の右上に通知を出してくる。これを無効化するためにもいちどGoogle検索しなければいけない。ただひたすらZenに浸すことさえ工夫や、そこに至るまでの準備が必要だ。余計なものが世の中には多すぎる。そして何が余計なものなのかは自分しか知らない。自宅にいるのは嫌だった。永遠にカフェで過ごしたかった。まだ僕の部屋には妻が眠っていて、目覚まし時計が何度も鳴る。一度目に鳴った時、もう二度目は鳴らないことを確認した。二度目に鳴った時は、妻は、止めたはずだけど止めていなかったと言った。三度目に鳴ったときに、僕は少し不機嫌な口調で、目覚まし時計を止めてくれませんかとお願いした。ここまでは想定内だ。無印良品の人間がだめになる椅子に座りながら、だめにならずにいる。孤独と静寂とは表裏一体で、すれすれの関係だ。この椅子を窓の方向に向けたいなと思う。スペース的には難しいけれど。太陽の光を少しだけ見ながら、MAcBookのキーボードを叩く恍惚に浸っていてない。この世界に完全は存在しないけれど、完全な環境に近づけることは出来る。そして完全が完成をみたかと思いきや、もうその完全は、必要がなくなることが多い。だけどいちど完成させてしまえば、思い出した時には、懐かしさと一緒にまた使える。たとば自宅を半分カフェのようにしておけば、たとえ半年に一度ほどでも、必要なったとき、本当に切実さを感じたときに、おはよう、世界。焦らなくて良い。静寂を保て。静寂と喧騒の絶妙な、孤独と静けさの絶妙なバランスを保つために、刑務所と瞑想ルームの中間地点で、鳴るな、目覚まし時計。焦らなくて良い。静寂を保て。このメッセージが君に伝わっただろうか。否。宇宙の塵と消えよ。

Twitter / Zen

スターバックスに1000万円使った話。

時は西暦2119年。男は135歳になっていた。100年前には考えられなかった科学文明の進化により人類の平均寿命は150歳にまで引き上げられていたのだ。毎日朝と晩、スターバックスという、今では廃れきった店に通い続け、抹茶のティーラテという古いドリンクを飲み続ける。日本にはもう、かつて大阪茶屋町というエリアにしか、スターバックスは存在しない。日本円にして一杯500円程度。二杯で1000円程度。これは100年前の日本円での話だ。1ヶ月で3万円、1年で36万円。100年間で3600万円。タイトルには1000万と書いたが実際には3600万円も使っていたようだ。男は思った。これだけの値段をたかがカフェと緑色のロゴに支払う必要があったのかと。そして目の前には、やはり科学技術の進歩により、お金を取り戻す的なマシーンが横たわっている。そいつを叩き起こすと男は、スイッチを推してみた。当時の金額にして3600万円が、男の日本円口座に振り込まれるのだ。どうやら西暦2119年にも日本という国はどうにか機能しているみたいだ。だがそのスイッチを押した瞬間、男の記憶からは、全てのスターバックスに関する記憶が失われる。そして全ての美しい感覚、今までに味わった全ての、あたたかい抹茶のティーラテの味わい、そこで打ち込んだ全ての文章たち、そこで聴いたすべての音楽の、美術的な感覚さえも。そのエネルギーが一気に奪われた結果、男は真っ白な灰にり、二度と戻らなかったという。男が塵と消えた2119年、その粉末を口にしてみると、抹茶のティーラテの味さえも、しなかった。2119年。西暦。

Twitter / Zen

カフェタイムのスターバックスは価値下落する。

お昼時にマクドナルドを訪れる。この時間帯、レジは混んでおり、お会計を済ませ、ホットティーを受け取り、二階の席に上り、ゴミを捨てて、リプトンのTバックをお湯に浸して、荷物をおろし、PCを立ち上げ、Wi-fiにつなげるまでに、やはり想像の三倍以上のコストがかかることに気づく。先程、入らずに立ち去った近くのスターバックスに、やはり入るべきだっただろうか。耳栓をしてなお、けたたましい騒音だ。耳栓の性能が悪くでもなったのだろうかと錯覚する。ちゃんと耳にハマっていないのか。いや、まさか、そんな。スターバックスはスターバックスで静けさはなくやはり賑わっている。気づく。時間帯によってカフェやファーストフードの価値はまったく変わってしまうと。値段は固定されており、価値は変動するわけだから、価値が高い時に来たほうが、値段に対して受け取るものが大きい。朝開店したばかりのマクドナルドに来るのと、昼時ににぎわう時に来るのとでは大きく違う。僕らは同じようなサービスを受けているつもりでいて、まったく違うサービスを受けている。いくらホットミルクティーが100円で買えるとしても、レジで待たされ、騒音の中に叩き込まれることを思えば、実質的にはもう100円、200円、300円と損をしているような感じがする。これはスターバックスでも同じだ。要するに混雑時間帯の飲食店の価値は基本的に下落するのだ。世の中の貸し切りというシステムには高い値段がついているだろう。マイケル・ジャクソンがディズニーランドを貸し切ったら巨額のお金がかかるだろう。ということでまたひとつカフェ論を深めた自分であったが、どうする、またこのマクドナルドを立ち去るか。席移動やらのサバイバル術で立ち向かうか。それとも隣のスターバックスまで移動するか。やはり人生はサバイバルである。

Twitter / Zen

LINEの返信が面倒くさすぎて恋人と別れた話など、他2本。

今は大阪茶屋町マクドナルド二階。MacBookで遊びたい年頃ですが何か。Twitterを一瞬でも開くと社会性の刺激が発動する。リプライや引用ツイートをした後は特に。すぐに目を閉じると感知しづらい意識のどこかで社会性がビンビンと動いているのが分かる。人間だなと思う。こういうと他の人に気を遣わせるかもしれないが、もともと人と話す時には一言一句に気を遣うタイプだ。頭の中でアレコレと考えて何も言えなくなることもある。それが良い風に出る時は、本当に人の話を聞くし、全てをポジティブに肯定してくれるし、言葉に気を遣っていると言われる。まず頭の中で自分の言葉に対してフィルタを何重にもかけるタイプだ。基本的には良い習慣だと思っている。けれども自分自身が低エネルギー状態だと、それでさらに疲れ果ててしまったり、何度も頭の中で考えた結果として何も言えなくなってしまうこともある。本当に日本語のてにをはの1文字に至るまで考えてしまうのだから。だから逆に言葉に対する繊細度のない人と話すと、こちらがダメージを受けてしまうことも。言葉に繊細であるのは良いことなのか悪いことなのか。もちろんこれも単一パラメータでは測れない。自分が低エネルギー状態か高エネルギー常態化による違いも大きい。この性質のせいでLINEの返信が本当に面倒くさくて、かつて恋人にも返信は3日に1度程度だったことさえある。なので僕の面倒くさがりさがだめな人は自然と去っていった。最近自分でもよく分かるが、何も考えていないわけではない。むしろ無限に考えてしまうからこそアウトプットができなくなっている。最近ではあまり迷いすぎずにアウトプットする練習をしている。言葉を考えて考えるスキルはもう上げ止まりかもしれない。それよりも自分が言葉を言ってしまった後に、軌道修正したり、レスポンスの意外さを楽しんだり、その後に目を閉じて、しばらく呼吸して、自分の社会性の敏感さをいさめる、マインドフルネスの時間にしたほうが良いかもしれない。コミュニケーションの世界にも、本当に複雑なことが起こり続けていると思う。

Twitter / Zen

#Mac のMjssionControlを使わずに人生損していた。

なかなか優秀じゃないかコイツは。使い方は簡単だ。Controlキーを推しながら十字キーを色々と押すだけ。基本的には。これで複数のデスクトップを使い分けられる。今までは、誤って操作してしまって、余計なことすんなよ!感しか感じていなかった。だけどこれで、ZenModeを自主的に実現しやすくなる。たとえば Slackの窓は1個のデスクトップスペースに置いておいて、他のアプリケーションは立ち上げない。気を散らさないための禅モードだ。そして調べ物などをしたくなったら、元のデスクトップスペースに戻ってChromeなどを使えば良い。これは使い始めるとなかなかに素晴らしい。今まではどうにかショートカットを工夫するなどして、Slackだけが見える状態にしたり、Chromeを立ち上げなおしたりと、色々とやっていた。だけどどうにも操作が複雑になる。Mac歴4年程度だけど、使わない基本機能は本当に使わないものだ。SpotLight Search も最近使い始めたところ。ということでMAcのMissionControl機能はいちど試して使ってみるべし。特に禅を実践するエンジニアにはオススメだ。

Twitter / Zen

妻から毎日好きと言われている。

自慢ですが何か。正確には、かわいいと言われることが多い。毎日かわいいかわいいと言われている。自慢ですが何‥。これもいちど語ろうと思って語っていなかったこと。なんか人生勝ち組的な響きがするが、そうでもない。夫婦関係ではわりと珍しい種類らしい。夫が妻のことを好き好きというパターンは聞くが、その逆はあまりないと。何故だろう。僕は恋愛の熱も好意もいつかは冷めるものだと思っていたので、3年以上の恋愛期間を経て、結婚をしたらこの魔法もいつか解けるものだとは思っていた。だけど結婚生活1年半、付き合いも5年近くを迎えて、まだ魔法は解けていないみたいだ。魔法ではないのかもしれない。これが生涯続くかどうかなど分からないけれど、好きと言われて嫌な気分はしない。激しい喜びはないけれど、ちょっとした愉悦もある。正確に言うと嬉しい時と嬉しくない時がある。口癖のように棒読みで言われても嬉しくない。今までになかったパターンの言葉を添えられて言われると嬉しい。お笑い芸人みたいにバリエーションを用意すると良いというアドバイスはした。褒め言葉を言ったからといって、必ずしも相手が嬉しいとは限らないという話もした。今思うとなかなかの上から目線な言葉だと思う。なんだかんだと言って結婚して僕自身、きっと幸福度は上がっているのだと思う。これは結婚生活なのであるから、短い期間とはいえ、筆に語れぬほどの苦労もたくさんあったのだけれども。たぶんこのバランスが崩れた時、僕は妻の元から立ち去る気がする。来るもの拒み、去るもの追わぬのが僕の基本セオリーだ。ここまで人間関係的にものぐさな夫でもなんとかやっていける妻は、やはり個人的には百人に一人の逸材というか、そうとうにマッチ度の高い組み合わせだなと思う。僕の家族からも、この息子は、あなたのような妻じゃないと無理だね、と言われていたりする。だんだんと、ただののろけになってきたのを感じ始めたが、ええと、僕が言いたいことは果たしてなんだったのか。そう、これがもし別の相手であればどうだっただろう。相手は永遠に寂しさを感じながら、お互いの関係性も冷めきっていたかもしれない。なぜなら1日に5分ほど話すコストも避けるようなダメな夫なのだから。デートの最中にすぐに解散しようとすることも許されなかったかもしれない。とにかく人から果てしなく距離を置こうとする自分なので、0.1%ずつ距離感を縮めていく練習の最中だ。恋愛時代の距離感が100で、妻の理想が1だとしたら、結婚生活を始めたからといって、これが急に1に近づくわけではない。たぶん50年間ぐらいかけて、少しずつ 100が90になり、80になり、そういう世界だということも妻といちど話した。夫婦関係というファンタジーもなかなか悪くないものだと思う。これをファンタジーだと言ったら妻はまた気分を害するかもしれないけれど。結婚生活、妻、夫という、ファンタジーを共有することによる、人間同士が、一緒に過ごすための楼閣なのだ。現場からは異常です。

Twitter / Zen

いまいいところだから。

いまいいところだからって感覚はなかなか良い。いま阪急塚口の綺麗で落ち着いたマクドナルドでMacBookを開いたけど、充電ケーブルを指して、iPhoneも充電しようかどうか一瞬悩んだ。だけどいまちょうど、良いところだから。何かSlackに書けそうだからという気持ちで、あとにすることにした。ほんの小さな手間ではあるのだけれど、またリュックサックを開いてケーブルを取り出し、コンセントに挿すだけの動作でも、筋肉は動くし、体の状態は変わってしまう感じがした。秒数じゃない。禅が崩れるか否かの問題かもしれない。あと、妻に夕飯に呼ばれど、いまちょっと待っててほしいというとき。いまちょうど良いところだからと。その昔、母に夕飯に呼ばれたけれど、いまちょっといいところだから、いまシムシティで遊んでるところだから、いまデザエモンでステージ2のデバッグ的アレをやってるところだから、いまいいところだからという感覚を、大事にしたい。

Twitter / Zen

群衆の中の猫。

たくさん人がいる場所を歩くと、よく思う。自分はこの雑多な群衆の中の一人にしか過ぎないのだなと。だけど嫌な感覚ではない。脳がPPCから解き放たれる。瞑想的な言い方をすれば、自我からの軽やかなる解放。群衆は昔は本当に嫌だった。自分がこの中のたった一人だということを考えると、とても耐えられなかった。これは決して僕だけが感じる感覚ではなくて、東京渋谷のスクランブル交差点の前に立つと、誰もが圧倒されて、似たような感覚を覚えるらしい。新宿など、都会のビルや、大勢の人に、飲み込まれていくような感覚。本当に自分は何者でもない。あの大きなビルボード広告にも顔は出ていないし、本当に、本当に誰も自分のことを知らない。自我をサンドバックのように打ち付けられる。ふだんは小さなテレビ画面で見る身近なアイドルも、大きな天空のディスプレイで見ると、とても手が届かない遠い世界の存在に思える。神がかってみる。一昔前であれば、この巨大な都会の中で、一旗揚げるのだと、一角の人物になるのだという物語がもてはやされただろう。だけどいまはTwitteやFacebookで誰もが何者かになれる時代だ。僕は何者かにさえなりたくない。普段はそう思っているけれど、もし本当に誰からも認められず、何者にもなれなかったとしたなら、途端に世界へのアクセスが閉ざされたような感覚がして、とても閉鎖的で、きっと耐えられない、尾崎豊の4thアルバムみたいに孤独に世界をさすらって死ぬだろう。きっと街路樹の近くで、名も無きホームレスのひとりとして。いまは自我からある程度は解き放たれているので、自分が大勢の群衆の中では、本当に何者でもない感覚を、愛している。脳がPPCから解き放たれる瞬間として。

Twitter / Zen

Kindleのインターフェイスによる人類の文化的損失。

思い出したい本がある。だけどなかなか思い出せないケースがある。断片的なキーワードだけを覚えている。Kindleのラインナップそれらしい本を開いて、テキスト検索してみても、なかなか見つからない。Kidnelには全ての本からの横断的な検索機能がない。WebはGoogleの洗練を受けてからもう十数年経つというのに、書籍の世界はまだ牧歌的な検索が跋扈している。ひどい話だ。今日も「なぜ今、仏教なのか」に書いてあったような「神との対話」に書いてあったようなテキストを探していた。何も見つからない。Kindleの購入履歴を当たってみても、よく分からない。仕方なく記憶をたよりに、ひたすらに考えるしかない。そうだ「ニューアース」だ。あの、非常にスプリチュアルではあるけれど、本の前半20%ぐらいが非常に優れていて、本質を突いていた本。同時期に買った本同士だと、タイトルをごっちゃにして覚えていたりする。Kindleの本も別に数千冊買っているわけではないのだから、時間をかけたら思い出せるのだろうけろ。人間の記憶の方がたどり着きやすい今のKindleのシステムは、どうにも不健全なように思える。電子書籍はいつになったら、ブレイクスルーを起こすのだろうか。もうずっと、日進月歩ではあるが、同じ地平にとどまっているような気がする。今日もMacのアプリで読書をしていると、全画面表示にしてなお、余計なメニューバーが表示されて、完全に読書に集中させるインターフェイスではないことに気づいた。まあiPhoneやタブレットのアプリに力を入れているのだろうけれど。他にもKindleで購入した本はAmazonが最終的な実験を握っているとかいないとか、ライセンス的な問題も抱えているし、まだタブレットも丸めて読めるデバイスではないし、ページをめくるスピードはおそすぎるし、iPadProは顔認証をしてくれないことがあって、とても気軽な読書には向かないし、最高の読書端末だったiPad Mini はいちどラインナップから消し去られるし。また復活するらしいけれど。テキストのコピー回数に制限があり、TwitterなどSNSへのシェア回数も制限されているし、それを回復する方法さえない。本当に全時代的というか、Kidleでニューパワーなんか読もうものなら、何がニューパワーなんだとiPadを地面に叩きつけたくもなる。日本のKindleは特にコピペやSNSでのシェア回数がケチに設定されていて、20回程度もテキストをコピーするだけで、もう上限に到達したり。二度言うが、この制限から回復する方法は存在しない。別のAmazonアカウントを取得してKindleも購入し直すしか無い。以前と仕組みが変わっていないのならば、そうだ。Webに比べて優れているところなどただのひとつだってあるのだろうか。単に著作権保護のために無数の不都合を、病を抱えているような感じがする。かといってWebの情報はノイズにまみれてロクなものがヒットしない。世の中の深みを見るならば書籍。だけどKindleという入り口が機能していない。紙の本は重くてとても持ち歩けない。とても惜しい、おしすぎるせかい。本は気軽に読めなければ意味がない。僕らがスマホやPCを持ち歩くようになったせいで、もう一冊紙の本を持ち歩くスペースがない。アメリカでもスマートフォンが人間の左手のシェアを奪って、ドーナツが売れなくなったとかならなかったとか。デバイスの世界にも競合は起こる。ここまで本が気軽に読めないせいで人類の文化的損失は果てしないのではないか。Kindleのインターフェイスが悪いせいで救えなかった名もなき人生の機会損失は大きいのではないか。がんばれKindle。がんばってくれ。

Twitter / Zen

Sign up for free to join this conversation on GitHub. Already have an account? Sign in to comment
Projects
None yet
Development

No branches or pull requests

1 participant