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* 後南朝明応
[SEE[ [[日本南北朝時代の元号]] ]]
[5]
1469年11月に明応と改元したとされます。
[6] [CITE@ja[[[大乗院寺社雑事記]]. 第4巻 尋尊大僧正記 31-50 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[辻善之助]], [TIME[1931-1936][year:1936]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155190/181>
[7] [CITE@ja[西陣南帝 - Wikipedia]], [TIME[2020-06-06 10:19:17 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%99%A3%E5%8D%97%E5%B8%9D>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[45] [CITE[西陣南帝(後南朝最期の光芒)]]
([TIME[2015-06-06 00:16:27 +09:00]] 版)
<http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage1253.html>
]FIGCAPTION]
> 文明元(1469)年11月に
南方蜂起が伝えられた。それによると、その者たちは兄弟で蜂起の
場所は吉野奥と熊野であり、十方に宣言し年号を明応元年として
いるというものであった。その実態については不明であるが、年号を
定めたとの情報も入っていることもあり、これまでにない実態を備えた
蜂起であった可能性が高い。
]FIG]
[8]
[[応仁の乱]]の西軍に迎え入れられ上洛したのに、
西軍の文書で使われた形跡がないということは、
それまでに廃されたのでしょうか。
あるいは後南朝関係者以外の西軍関係者には受けいられれなかったのでしょうか。
[1] [CITE@ja[可怜さんはTwitterを使っています 「天川村には南朝発給の綸旨・令旨など13通を伝えるが、同村を調査した宮本常一は『吉野西奥民俗採訪録』(1942年)で他に以下の奇妙な「綸旨」の存在を紹介している。上半分が破損して文意も十分に通らず、綸旨にあるべき奉者の署名も宛所もない。しかも、明応3年は甲寅(1494年)であって干支も一致しない https://t.co/LEpQdXOXp4」 / Twitter]]
([TIME[2020-05-23 21:14:42 +09:00]])
<https://twitter.com/iokhicjnoakn/status/1263117512884932609>
[2] [CITE@ja[可怜さんはTwitterを使っています 「この「綸旨」は、吉野史談会『吉野風土記』第15号(1960年)で「後南朝天皇の綸旨」として紹介され、にわかに注目を集めた(宮本とは若干翻刻が異なり明応6年とする)。「明応」を後南朝の年号と解釈して1472年壬辰に比定した訳だが、後南朝の明応元年は1469年なので、3年でも6年でも整合しないことになる」 / Twitter]]
([TIME[2020-05-24 12:02:43 +09:00]])
<https://twitter.com/iokhicjnoakn/status/1263139337480187904>
[3] [CITE@ja[可怜さんはTwitterを使っています 「「後南朝の綸旨」と紹介した天河社家の井頭孝行は、中村直勝に写真を示し「綸旨に相違ない」と確かめたと述べる。ただ、宮本や井頭が見た「綸旨」の現物は当時既に所在を失っていたらしく、史料集などに収録されたとの話も聞かない。遺っていれば、忠義王文書と並んで検討する価値のある文書のはずだが」 / Twitter]]
([TIME[2020-05-24 12:03:10 +09:00]])
<https://twitter.com/iokhicjnoakn/status/1263156696727183360>
[4] [CITE@ja[可怜さんはTwitterを使っています 「無論偽文書の可能性を排除できないが、天川郷ならば書式の整った立派な綸旨の偽作が可能だったろう。1472年当時、在洛の西陣宮が殊更に天川郷の忠節を嘉する動機はない。「明応」を掲げ吉野・熊野で蜂起した南主兄弟の発した「綸旨」と仮定すれば、彼らは西陣宮とは別系統の後南朝勢力だったとみられる」 / Twitter]]
([TIME[2020-05-24 12:03:21 +09:00]])
<https://twitter.com/iokhicjnoakn/status/1263501675483951104>
* 日本政府明応
[131] [[Wikipedia]] は延徳4年7月19日
([[ユリウス暦]]1492年8月12日) を[[改元日]]としています。
「ただし室町幕府は改元吉書始を7月28日(8月21日)に行い、この日から新元号を採用している。」
ともあります。
[9]
[[後南朝]]の[[明応]]が噂になっていたのに、
それが[[公年号]]として採用されてしまったのは、
この頃には既に忘れられていたのでしょうか。
それとも取るに足らないとされたのでしょうか。
* メモ