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[76]
[DFN[明応]]は、[[日本の元号]]の1種です。
* 明応 (後南朝)
[5]
[[日本]]の[[後南朝]]が[DFN[明応]]と[[建元]]したとする伝承があります。
似た異説がいくつかあります。
** 文明元年5月の応仁の乱西軍改元の噂
[29]
[TIME[応仁3(1469)年4月28日][kyuureki:1469-04-28]] [SRC[>>31]]、
[[応仁の乱]]のさなか[[東軍]] ([[後土御門天皇]], [[足利義政]][[将軍]])
は[[兵革]]を理由に[[文明]]と[[改元]]しました。
[SRC[>>440]]
[[西軍]]についても[[改元]]の噂がありました。
[27]
[CITE[經覺私要鈔]]
[TIME[文明元(1469)年5月4日丁亥][kyuureki:1469-05-04]]条
[SRC[>>31, >>440 ([CITE[経覚私要抄]] 応仁3年5月4日条)]]
は
「伯書記云」
として、
[TIME[文明元年4月28日][kyuureki:1469-04-28]]に[[文明]]と[[改元]]があったこと、
西方にも[[年号]]があるらしいが文字が「不分明」であることを書いていました。
[SRC[>>31, >>33, >>34]]
[35]
[RUBYB[[[経覚]]][[TIME[1395]]-[TIME[1473]]]]は[[興福寺]][[大乗院]]の[[門跡]]でした。
[[伯書記]]は僧の名とあります [SRC[>>34 /104]]。
[[京都]]から[[奈良]]まで[[改元伝達]]に平時でも数日程度かかっていたとされ
([SEE[ [[改元伝達]] ]])、
[[文明]]の新元号の情報が到達した直後の[[奈良]]で、
[[西軍]]の[[改元]]も噂になっていたと考えられます。
[[京都]]から共に伝わってきたのか、[[奈良]]までの経路上で付与されたのか、
元々別にあった噂が合体した形なのかはよくわかりません。
[77]
現存する記録ではこの時点でまだ[[西陣南帝]]の擁立には動いていないと思われますが、
[[西軍]]方でも既に独自の[[天皇]]を擁立する動きがあった、
ないしは噂されていたのでしょうか。
[78]
実際には[[西軍]]では[[公年号]]が使われ続けており (>>28)、
現状では[[改元デマ]]の類と考えるのが妥当でしょうか。
** 文明元年11月の後南朝明応改元の噂
[36]
[CITE[大乗院寺社雑事記]]
文明元年11月21日条に、
[[南主]]兄弟が[[吉野]]と[[熊野]]で蜂起し明應元年と[[年号]]を建てたとの噂が記録されています。
[SRC[>>6]]
[37]
同条は[[興福寺]][[大乗院]]の[[経覚]]の次代の[[門跡]]の[RUBYB[[[尋尊]]][[TIME[1430]]-[TIME[1508]]]]によるものです。
半年前の噂とは違って[[後南朝]]の[[改元]]で、今度は[[元号名]]も明らかにされています。
[30]
同条はこの時期の[[後南朝]]の動向の記録の中では古いものとされます。
[[元号]]の情報も入っているので、これまでにない実質を備えたものだった可能性が高いと考えられています。
[SRC[>>38]]
;; [42] えー、なんか不安を感じさせる言い方ですね。
さすがに他にも理由はあって可能性が高いと判断しているとは思いますけど...
[43]
[[平成時代]]の[[日本]]の[[後南朝]]研究者[[森茂暁]]は、
[[明応]]が使われたとすれば「[V[いわゆる私年号]]」にあたるとしています。
[SRC[>>38]]
[HISTORY[
[51]
文明元年11月21日に明応元年と宣言したとするものもあります [SRC[>>11]]
が、この日に噂が記録されたのに過ぎず、噂が事実なら挙兵と建元はそれよりも数日以上前となります。
厳密に言えばこの年の出来事かもわからないのですが、11月なので一応同年中として構わないでしょう。
]HISTORY]
[REFS[
-
[6] [CITE@ja[[[大乗院寺社雑事記]]. 第4巻 尋尊大僧正記 31-50 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[辻善之助]], [TIME[1931-1936][year:1936]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1155190/181>
右下
- [31]
[CITE@ja-JP[[[大日本史料]] 第8編之2]], [[東京大学史料編纂所]], [TIME[大正4][1915]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-11T05:03:52.955Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3450584/1/433>
- [33]
[CITE@ja-JP[室町時代の研究]], [[史学地理学同攷会]], [TIME[1923]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-11T05:15:34.138Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1918379/1/182> (要登録)
右
- [34]
[CITE@ja-JP[福井県郷土叢書 第10集 (北国庄園史料)]], [[福井県立図書館, 福井県郷土誌懇談会 共編]], [TIME[1965]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-11T05:42:46.516Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2966041/1/95> (要登録)
左下
- [47] [CITE[闇の歴史、後南朝]]
--
[48]
[CITE@ja-jp[[[闇の歴史、後南朝]] 後醍醐流の抵抗と終焉 (角川ソフィア文庫) | 森 茂暁 |本 | 通販 | Amazon]], [TIME[2024-02-11T06:28:52.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4044092087/wakaba1-22/>
--
[16] [CITE[闇の歴史、後南朝: 後醍醐流の抵抗と終焉 - 森茂暁 - [[Google ブックス]]]], [TIME[2023-01-24T11:54:53.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=jA-0i5qTjyYC&pg=PA234&lpg=PA234>
-- [38]
[CITE[[L[闇の歴史、後南朝]]]],
[[[L[森茂暁]]]],
[L[平成25年6月20日 初版発行]] [WEAK[([TIME[2013-06-20]])]],
[L[令和2年3月5日 3版発行]] [WEAK[([TIME[2020-03-05]])]]
--- [39]
[CSECTION[[V[おわりに]]]],
[V[平成九年三月十二日]] [WEAK[([TIME[1997-03-12]])]]
--- [40]
[V[一九九七年七月]] ([TIME[1997-07]]) 刊行
-
[15] [CITE[後醍醐天皇]], [TIME[2011-06-23T11:34:11.000Z]], [TIME[2023-01-24T11:54:01.275Z]] <http://kurekiken.web.fc2.com/data/2001/010706.html>
-
[7] [CITE@ja[[[西陣南帝]] - Wikipedia]], [TIME[2020-06-06 10:19:17 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%99%A3%E5%8D%97%E5%B8%9D>
- [440] [CITE[[[中世の元号]]]]
-
[11] [CITE@ja[〈国史研究〉応仁・文明の乱における旧南朝(後南朝)皇族の動向 - 台湾建国応援団]],
投稿者(文責):[[mumeijin]],
投稿日:2013-09-15,
[TIME[2023-01-24T10:26:18.000Z]] <http://ilha-formosa.org/?p=33267>
-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[45] [CITE[西陣南帝(後南朝最期の光芒)]]
([TIME[2015-06-06 00:16:27 +09:00]] 版)
<http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage1253.html>
]FIGCAPTION]
> 文明元(1469)年11月に
南方蜂起が伝えられた。それによると、その者たちは兄弟で蜂起の
場所は吉野奥と熊野であり、十方に宣言し年号を明応元年として
いるというものであった。その実態については不明であるが、年号を
定めたとの情報も入っていることもあり、これまでにない実態を備えた
蜂起であった可能性が高い。
]FIG]
-- [44] 消滅確認 [TIME[2024-02-11T06:26:23.00Z]]
-- [46] [CITE[西陣南帝(後南朝最期の光芒)]], [TIME[2024-02-11T06:26:05.000Z]], [TIME[2016-09-25T22:34:02.048Z]] <https://web.archive.org/web/20160925223326/http://www5f.biglobe.ne.jp/syake-assi/newpage1253.html>
]REFS]
-*-*-
[49]
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]は[[私年号]]の[[一覧][日本私年号一覧表]]に括弧付きで掲載しています。
[SRC[>>10]]
凡例がないので意味不明ですが、風説で実用例がないからでしょうか。
[REFS[
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]
>
,*私年号 ,*異説 ,*元年相当公年号(西暦) ,*継続年数 ,*典拠・備考
,(明応) ,- ,文明元年(1469年) ,不明 ,『大乗院寺社雑事記』文明元年11月21日条。後南朝改元の風説。
]FIG]
]REFS]
** 西陣南帝建元説
[41]
[TIME[文明元(1469)年][1469]]11月の噂の後、
[[西軍]]は[[後南朝]]の通称[[西陣南帝]]を擁立したとされますが、
断片的な記録のみで、文明元年11月に蜂起した者と[[西陣南帝]]が同一の者かも明らかではありません。
[SRC[>>38]]
[28]
[[西軍]]の[[山名氏]]は、
[TIME[応仁3(1469)年][1469]]6月時点では「応仁三年」を使っており、
応仁4年4月までには「文明」を使うようになっています。
[SRC[>>440 ([CITE[[[大日本古文書]] 山内首藤家文書]]所収応仁3年6月10日山名持豊感状、[CITE[離宮八幡宮文書]]所収文明2年4月21日室町幕府奉行人連署奉書)]]
正確にいつ切り替えたのかはわかっていません。
;; [32] 地理的には近くても情報の混乱が大きかったようなので、
意図的に[[応仁]]を使ったのか[[改元]]の連絡がなくて使い続けたのかわかりませんね。
[[延長年号]]も参照。
[8]
[[西陣南帝]]が[[応仁の乱]]の西軍に迎え入れられ上洛したのに、
西軍の文書で使われた形跡がないということは、
[[西陣南帝]]と文明元年11月の挙兵は別勢力だったのでしょうか。
それともそれまでに廃されたのでしょうか。
あるいは後南朝関係者以外の西軍関係者には受けいられれなかったのでしょうか。
文明元年4月の西軍改元の噂との関係はどうなのでしょうか。
-*-*-
[53]
[[明応]]の[[建元]]者を[[西陣南帝]]と断定するものもあります
[SRC[>>52, >>14]] が、根拠は不明です。
[REFS[
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[52]
[CITE@ja[[[明応]] - Wikipedia]], [TIME[2024-01-28T05:10:40.000Z]], [TIME[2024-02-11T07:08:36.281Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BF%9C>
]FIGCAPTION]
>[SNIP[]]なお、それ以前に応仁の乱で西軍に擁立された後南朝の西陣南帝が、当初は「明応」の年号を独自に制定していたことがある。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[14] [CITE[【新田楠木】[[後南朝]]スレ★4【西陣南帝】]], [TIME[2019-11-04T16:40:24.000Z]], [TIME[2023-01-24T11:53:28.762Z]] <http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/history/1549373880>
]FIGCAPTION]
>160 :日本@名無史さん:2019/04/13(土) 16:28:16.99 .net
>
[PRE[
>>158
西陣南帝は新しい元号として明応を定めているが、
西軍諸大名は誰も明応なんて使ってない
]PRE]
>
166 :日本@名無史さん:2019/04/14(日) 13:42:08.60 .net
>
[PRE[
後南朝には甘露寺親長のような公卿はほとんどいないから、在野の学者が勧進者となって
最終的には南帝が籤を引くなどして「明応」を選定したものだろう
あるいは、従来、すでに何度か「明応」が元号の候補として出たことがあり、それを
知った後南朝の朝臣が使用したのかも知れない
]PRE]
>
167 :日本@名無史さん:2019/04/14(日) 19:50:18.89 .net
>
[PRE[
応仁の乱の時には前関白九条政元だっけ、泉南のほうの日根野に下向してるね
蜂起した連中が事前に年号案とかをこっそり質問してた可能性はないか?
泉州南部と紀伊は地理的にも文化的にも近いしさ
]PRE]
>168 :日本@名無史さん:2019/04/27(土) 17:00:24.38 .net
>
[PRE[
「明応」の出典は、後醍醐天皇が親政を始めた元亨年間の「元亨」と同じなんだよな
「周易」の文をもう少し長く引用すると、「其徳剛健而文明、応乎天時而行、是以元亨」
となる
これは、西陣南帝が後醍醐天皇の偉業を継いで、再び主上による親政を復活し、南朝の
皇基を築こうという意思を反映したものではないか?
]PRE]
>
169 :日本@名無史さん:2019/04/27(土) 19:26:56.76 .net
>仏教由来が多い私年号のなかで、儒教的な「天靖」はやはり異質
]FIG]
;; [50] 明記されていないが、明らかに[[令和改元]]の時事柄からこの話題が膨らんでいます。
]REFS]
** 文明2年2月日尊改元説
[67]
[[昭和時代]]の研究者[[渡邊世祐]]は、
文明2年2月に[[南朝]]の後裔の[[日尊]]が[[紀伊国]]の宇恵衛門の館で挙兵し、
[[年号]]を[[明應]]としたと書いています。
[SRC[>>69]]
出典は定かではありません。
;; [68] [[日尊]]の挙兵のことは[CITE[大乗院寺社雑事記]]文明3年閏8月16日条から引用しています。
[SRC[>>69]]
;; [70] 同書所収別著者論文は文明元年11月の[[明應]]を紹介しています [SRC[>>66 /60]]。
[60]
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]は[TIME[文永元(1264)年][1264]]11月に兄弟が挙兵し[[明応]]と[[建元]]したと書いています
[SRC[>>59]]。
出典不明ですが、明らかに文明元年11月の誤りです。
[61]
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]はそれと共に、
[TIME[文明2(1470)年][1470]]2月に[[日尊]]が[[明応]]と[[改元]]したと書いています
[SRC[>>59]]。
噂と[[1年ずれ]]ていますし、[[建元]]者が違います。
[62]
>>60 説と >>61 説の関係は何の説明もありません。
[79]
文明2年[[建元]]の出典は明確に書かれていませんが、直後の記述から >>66 が出典とわかります。
[65]
[[日尊]]が[[南朝]]の後裔かは疑問視されています。
[80]
文明元年11月の[[明応]]の噂が真実だとすると、
文明2年に明応元年を使うのは不審です。
偶然に別勢力が使うほど「明応」が魅力的だったり、[[後南朝]]と縁が深かったりするようには思えません。
文明元年11月の[[明応]]の噂が[[改元デマ]]だとしても、
その翌年に偶然それと一致する明応元年を使う者が出てくる可能性が高いとは思えません。
[81]
するとより古い文明元年11月の噂の存在が信憑性の高い資料に記録されている以上、
文明2年説の真実性は低いと言わざるを得ません。
(文明2年にも[[明応]]の噂が流れていた可能性はあります。)
;; [82]
文明元年11月に「翌年を明応元年とする」と決めたのが噂として先走って流れた、
という可能性は一応ありますが...
中世の日本でわざわざ翌年まで[[改元]]を遅らせる前例も動機も思い当たりません。
[REFS[
- [66]
[CITE@ja-JP[[[後南朝史論集]] : 吉野皇子五百年忌記念]], [[後南朝史編纂会]], [TIME[1956]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-11T08:54:31.288Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3006092/1/50> (要登録)
--
[69]
[CITE[後南朝史槪說]],
[[渡邊世祐]]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[59]
[CITE@ja[[[後南朝]] - Wikipedia]], [TIME[2024-01-28T07:15:08.000Z]], [TIME[2024-02-11T07:25:51.328Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%8D%97%E6%9C%9D>
]FIGCAPTION]
>文永元年11月、吉野と熊野で小倉宮の兄弟(名不詳)が挙兵し、年号を「明応」とした。2人は翌2年の末に殺され、その首は京にもたらされた。
>
文明2年(1470年)2月には、南朝の皇胤とされる日尊が紀伊国の宇恵衛門の館で挙兵し、年号を改めて「明応」とした。3月8日には藤白に陣を構え、紀伊の郷士や畠山義就配下の士が多く従った。しかし、12月頃に畠山政長軍に討伐され、日尊の首は官人に渡された[SUP[__&&[&&__1__&&]&&__]]。
[1] は
> 後南朝史編纂会 『後南朝史論集』 1956年 新樹社
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[84] [CITE@ja[麒麟が来るが終わって マムシの道三は三人いた | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。]],
2021年02月10日 10時30分32秒,
[TIME[2024-02-11T11:11:51.000Z]] <https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12655765321.html>
]FIGCAPTION]
> 応仁の乱が起きて足利氏の内輪争いが起るや文明二年(一四七〇)又しても紀伊の宇恵衛門の館にて旗上げをし、南朝年号での、「明応元年三月八日」に紀伊海草郡藤白坂の上に陣をしいた。
このとき雅楽助の遺孤の、「楠木正栄」の奉じたおん方は、『大乗院寺社雑事記・文明三年八月十六日』の条によると、
> 「南朝方にここ一両年、日尊と号して諸方へ檄文をとばし、種々の計略をなす人これありて、後醍醐帝の御末の方なり」と出ている御方なのである。
> しかし楠木正栄の力が及ばず、正しくはこれより一年前にすでに討たれてしまっているのは、『親長記』文明二年十二月六日の条に、
>「南方余流の人うちとる。賊首京着之由」の記載がある。つまり、日尊王と正栄の首級は畠山政長のために斬られ仙洞御所へ送られているのである。
]FIG]
]REFS]
** 天川村文書
[71]
[[日本国]][[奈良県]][[吉野郡]][[天川村]]に残る[[南朝]]の[[綸旨]]とされるものに、
[[日付]]を
「[V[明應□年[LINES(smaller)[壬][辰]]五月廿日]]」
とするものがあります。
□は「[V[三]]」とする説と「[V[六]]」とする説があります。
[SRC[>>75, >>2]]
[72]
[[昭和時代]]に写真で[[綸旨]]に相違ないと判断されましたが、
当時既に現物は行方不明となっていました。
[SRC[>>3]]
その写真の原板も戦災 ([[大東亜戦争]]か) で消失したとのことです。
[SRC[>>89]]
なおその被写体は原本でなく写しでした。
[SRC[>>92]]
;; [90] >>89 にぎりぎり文字の形を読み取れる白黒写真があります。
[73]
[TIME[文明元(1469)年][1469]]を[[元年]]とする[[明応]] ([TIME[y~1297]])
とは3年でも6年でも[[干支年]]が一致しません。
[SRC[>>75, >>2]]
[74]
[TIME[文明2(1470)年][1470]]を[[元年]]とする[[明応]]なら3年が[TIME[壬辰(1472)年][1472]]で一致します。
[85] [[天川村]]は[[奈良県]]南部では西の方ですが、[[和歌山県]]には接していません。
[[紀伊]]の宇恵衛門の館がどのあたりか不明ですが、[[紀の川]]下流域であればそう遠くはなく、
[[日尊]]と関係があるのかもしれません。
[86]
[[日尊]]とされる勢力の噂が文明2年、文明3年に記録されていますから、
文明4年にあたる明応3年のものとして、時期的に無理はありません。
[87]
[[日尊]]の伝承を元にした後年の偽作なら、3年ではなく明応元年や明応2年としそうなものです。
真作なのか、明応がそれよりも長く続いたという他の伝承に基づく偽作ということでしょうか。
[88]
なお、当時のものという意味で真作ではあるとしても、[[南朝]]後裔のものではないという意味で偽造という可能性はやはり残ります。
[REFS[
-
[75]
[CITE@ja[[[可怜]]さんはTwitterを使っています 「天川村には南朝発給の綸旨・令旨など13通を伝えるが、同村を調査した宮本常一は『吉野西奥民俗採訪録』(1942年)で他に以下の奇妙な「綸旨」の存在を紹介している。上半分が破損して文意も十分に通らず、綸旨にあるべき奉者の署名も宛所もない。しかも、明応3年は甲寅(1494年)であって干支も一致しない https://t.co/LEpQdXOXp4」 / Twitter]]
([TIME[2020-05-23 21:14:42 +09:00]])
<https://twitter.com/iokhicjnoakn/status/1263117512884932609>
--
[2] [CITE@ja[[[可怜]]さんはTwitterを使っています 「この「綸旨」は、吉野史談会『吉野風土記』第15号(1960年)で「後南朝天皇の綸旨」として紹介され、にわかに注目を集めた(宮本とは若干翻刻が異なり明応6年とする)。「明応」を後南朝の年号と解釈して1472年壬辰に比定した訳だが、後南朝の明応元年は1469年なので、3年でも6年でも整合しないことになる」 / Twitter]]
([TIME[2020-05-24 12:02:43 +09:00]])
<https://twitter.com/iokhicjnoakn/status/1263139337480187904>
--
[3] [CITE@ja[[[可怜]]さんはTwitterを使っています 「「後南朝の綸旨」と紹介した天河社家の井頭孝行は、中村直勝に写真を示し「綸旨に相違ない」と確かめたと述べる。ただ、宮本や井頭が見た「綸旨」の現物は当時既に所在を失っていたらしく、史料集などに収録されたとの話も聞かない。遺っていれば、忠義王文書と並んで検討する価値のある文書のはずだが」 / Twitter]]
([TIME[2020-05-24 12:03:10 +09:00]])
<https://twitter.com/iokhicjnoakn/status/1263156696727183360>
--
[4] [CITE@ja[[[可怜]]さんはTwitterを使っています 「無論偽文書の可能性を排除できないが、天川郷ならば書式の整った立派な綸旨の偽作が可能だったろう。1472年当時、在洛の西陣宮が殊更に天川郷の忠節を嘉する動機はない。「明応」を掲げ吉野・熊野で蜂起した南主兄弟の発した「綸旨」と仮定すれば、彼らは西陣宮とは別系統の後南朝勢力だったとみられる」 / Twitter]]
([TIME[2020-05-24 12:03:21 +09:00]])
<https://twitter.com/iokhicjnoakn/status/1263501675483951104>
--
[89]
[CITE@ja[Xユーザーの可怜小汀さん: 「#後南朝 の綸旨とも言われた天川郷「明応」文書の写真。文書の所在はおろか、写真の原版も戦災で失われているため、筆跡が窺える貴重な1枚だ https://t.co/iqqinUuvdZ」 / [[X]]]], [TIME[午後5:55 · 2021年4月17日][2021-04-17T08:55:18.000Z]], [TIME[2024-02-11T10:26:30.000Z]] <https://twitter.com/iokhicjnoakn/status/1383343298396393477/photo/1>
--
[91]
[CITE@ja[[[X]]ユーザーの可怜小汀さん: 「@uizhackiinmuufb 後南朝の皇胤が南帝を僭称して発した綸旨だとすれば興味深いのですが、文書の実物が所在不明となった今では真贋の判定もままなりません」 / X]], [TIME[午後6:13 · 2021年4月17日][2021-04-17T09:13:06.000Z]], [TIME[2024-02-11T10:26:30.000Z]] <https://twitter.com/iokhicjnoakn/status/1383347777879433217>
--
[92]
[CITE@ja[Xユーザーの可怜小汀さん: 「@uizhackiinmuufb 実物を見たであろう宮本が「この文書は他の綸旨が実物であるのに対して写しになっており」と述べているのが気に掛かる点ではあります.....」 / [[X]]]], [TIME[午後6:29 · 2021年4月17日][2021-04-17T09:29:52.000Z]], [TIME[2024-02-11T10:26:30.000Z]] <https://twitter.com/iokhicjnoakn/status/1383351998804762629>
]REFS]
** 美作後南朝陰謀論
[54]
[[美作後南朝]]説では[[忠義親王]] [SRC[>>63]]
([[信雅王]] [SRC[>>12]]) の[[即位時][代始改元]]の[[元号]]としています。
[SRC[>>63, >>12]]
[55]
[TIME[応仁元(1467)年][1467]]が[[元年]]で、
[TIME[西暦1488年][1488]]まで継続したとされます。
[SRC[>>12]]
;; [56] [TIME[文明元(1469)年][1469]]11月を[[元年]]とする噂と[[2年ずれ]]ています。
;; [64] >>63 は[[長禄の変]]の直後の即位としており、
>>12 とは時期があいません。
[58]
これを紹介する[[ウェブサイト]]は[[私年号]]と書いています。 [SRC[>>12]]
[[代始改元]]なのに[[私年号]]とはどういうことなのでしょうか。
[[私年号]]というのは正史の立場から、ということでしょうか。
[57] [[信雅王]]は[[西陣南帝]]に比定されることもあります [SRC[>>12]]
が、信頼できる史料に表れない人物です。
[[美作南朝]]説も、信頼できる史料に基づかないものです。
[REFS[
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[63]
[CITE@ja[null]], [TIME[2013-08-29T06:49:36.000Z]], [TIME[2024-02-11T07:35:18.379Z]] <http://pasocon-salon.floppy.jp/akihisa02.html>
]FIGCAPTION]
> 即位から7年後の長録2年(1458)7月、興福天皇は植月御所内で幼帝の相談
相手であった小寺藤兵衛に突然斬られ、翌日13才で死亡。[SNIP[]]
>3.3 第3代忠義親王
> 初代高福天皇の第2子忠義親王は直ちに即位、年号を明応と改めた。
> 文正2年(1467)に起こった応仁の乱において美作の守護であった西軍の
山名宗全は忠義天皇を京に乞い、錦旗聖旨を戴き細川勝元の東軍を国賊として
将兵を鼓舞しようとした。 一方、忠義天皇も長年願望である京への進出の機
会到来とばかり尊朝、森久の二児をつれて植月御所から上洛した。[SNIP[]]
> この11年間続いた応仁の乱が勝者のないまま収束したことより忠義天皇の
願望は達せられず、京を引き揚げ植月御所に帰還した。 挫折した忠義天皇は
12才の尊朝親王に世を譲り禅定法王として隠居、文明12年(1480)35才で崩
じた。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[12] [CITE[舞!組曲 <日本! 115 南朝( 義仁王、義有王、尊雅王、信雅王 )>]], [TIME[2023-01-24T10:27:09.000Z]] <http://www.photoland-aris.com/myanmar/near/n115/>
]FIGCAPTION]
>
[B[■ 信雅王]]
>[SNIP[]]
>
尊雅王を父とし、奥吉野に隠れ棲むところを応仁の乱の折に山名宗全が西陣「南帝」 として 奉じたという。一方、『美作南朝』によると、西陣南帝は美作南朝第三代天皇の西天 皇 (忠義)だという。西天皇は初代・高福天皇(尊義王)の皇子で、赤松方に暗殺され た 二代・興福天皇(尊雅)の後に天皇に即位した。即位と同時に年号を「明応」とし た。
>
信雅王は私年号だが1467年を元年とする「明応」をたてた(~1488年)。
>[SNIP[]]
]FIG]
]REFS]
** 研究史
[93]
[[後南朝]]研究者の間では[[昭和時代]]以来知られていました
(>>43 >>68 >>67 >>71)。
[94]
[[私年号研究]]者には知られておらず、
[[昭和時代]]の[CITE[日本私年号の研究]]にも[[平成時代]]の[[千々和到]]の[[一覧表][日本私年号一覧表]]にも掲載されていませんでした。
[[平成時代]]後半の[CITE[ウィキペディア]]の表には掲載されています (>>10)。
** 関連
[22]
[[日本南北朝時代の日時]],
[[勝山記の日時]]
** メモ
[83]
「'''応'''仁」から「文'''明'''」への[[改元]]の[[年]]に出てきた噂で、
しかも[[改元]]直後から既に怪しげな[[改元]]の噂が流れていた、
ということは「明応」という[[元号名]]も新旧元号名が混乱のもとで変化して発生した可能性を考えるべきかもしれません。
[95]
[[公年号]]と同名のため検索しづらいのが障害になっています。
* 明応 (日本公年号)
[TIME[y~1497]]
[131] [[Wikipedia]] は延徳4年7月19日
([[ユリウス暦]]1492年8月12日) を[[改元日]]としています。
「ただし室町幕府は改元吉書始を7月28日(8月21日)に行い、この日から新元号を採用している。」
ともあります。
[9]
[[後南朝]]の[[明応]]が噂になっていたのに、
それが[[公年号]]として採用されてしまったのは、
この頃には既に忘れられていたのでしょうか。
それとも取るに足らないとされたのでしょうか。
[23]
噂の記録が残るのは[[奈良]]。[[京都]]の元号考案者らは知らなかったのですかね。
[19] [CITE@ja-JP[千葉県史料 中世篇 香取文書]], [[千葉県史編纂審議会]], [TIME[1957]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-20T07:38:09.757Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3450860/1/248> (要登録)
左下
[20] >>19
癸丑年とだけありますが、
目次によると明応2年癸丑と推測されています。
[21] 前後の同地域、同時代の文書と比較すると、なぜかこれ1通だけ[[干支年]]で浮いています。
[25]
[CITE@ja-JP[信濃史料 第9巻 (応仁2年正月-明応2年11月)]], [[信濃史料刊行会]], [TIME[1957]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-07T12:46:05.772Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3013099/1/288> (要登録)
[26] >>25 延徳4年壬子12月15日、16日を訂正して明応元年。いつ訂正されたのかはわからないが、
[[改元伝達]]タイミングがこの頃だったということか。
[13] [CITE@ja[明応 - Wikipedia]], [TIME[2023-01-10T11:50:57.000Z]], [TIME[2023-01-24T11:50:59.936Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BF%9C>
[17] [CITE@ja-JP[川口市史 古代・中世資料編]], [[川口市]], [TIME[1978.12][1978]], [TIME[2024-01-04T10:11:04.000Z]], [TIME[2024-01-04T13:24:44.226Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9641575/1/317> (要登録)
[[遡及年号]]
[18] [CITE@ja-JP[川口市史 古代・中世資料編]], [[川口市]], [TIME[1978.12][1978]], [TIME[2024-01-04T10:11:04.000Z]], [TIME[2024-01-04T13:26:15.045Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9641575/1/320> (要登録)
干支ずれ
** 1年ずれ
[24] [[勝山記の日時]]
* 明悳
[SEE[ [[明徳]] ]]
* メモ