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1000
[33] 現在の[[朝鮮半島]]では、
[[北鮮]]で主に[[主体暦]]と[[西暦]]が、
[[南鮮]]で主に[[西暦]]が用いられています。
歴史的には多種多様な[[紀年法]]が用いられました。
* 種別
[30] [[朝鮮半島]]では、次の[[紀年法]]が用いられてきました。
[FIG(short list)[ [49] [[朝鮮半島]]の[[紀年法]]
- [[中国の元号]]
- [[朝鮮半島の元号]]
- [[啓統紀元]]
- [[江都紀年]]
- [[崇禎紀元]]
- [[開国年号]]
- [[日本の元号]] ([[明治]]、[[大正]]、[[昭和]])
- [[皇紀]]
- [[誕降後]]
- [[在位紀年]]
- [[主体暦]]
- [[干支年]]
- [[三元甲子]]
- [[百済年号]]
- [[箕子紀年]]
]FIG]
[32] [[朝鮮半島]] ([[韓半島]])
は[[中国]]の支配下にあったため、基本的には[[支那の元号]] (特定の時期のみ独自の[[朝鮮半島の元号]])
を使っていたようです。
,米軍政府 ,1945年,==,9月〜
,[[大韓民国]] ,檀君4281年,1948年
,〃 ,檀君4294年,1961年
,〃 ,西暦1961年,==
,ソ連軍占領下 ,1945年,==,9月〜
,[[朝鮮民主主義人民共和国]],西暦1948年,==
,〃 ,西暦1997年,==,〜9月8日
,〃 ,主体86年,1997年,9月9日〜
* 在位紀年
[31]
[[朝鮮半島]]の歴代王朝時代の事項を記述する際には、
[DFN[当該王朝の王名と在位年数を使った紀年][朝鮮半島の即位紀年]]
([[在位紀年]]) を用いることがよくあるようです。
[156]
[[中華文化圏]]諸国では[[元号]]がないとき[[即位紀年]]を使うのが一般的で、
[[朝鮮半島]]諸国でも古くから行われてきました。
[SEE[ [[東洋の即位紀年]], [[諸侯王等即位紀年]] ]]
[54]
公的には[[宗主国]]である[[中華王朝]]諸国の[[元号]]が使われていたのですが、
[[支那王朝の元号]]の期間は[[朝鮮]]王朝の統治と連動しておらず、
歴史書や歴史研究の場では使いづらいのでしょうか。
[[属国]]の象徴である[[支那]]の[[元号]]は使いたくないとの事情もありそうです。
[SEE[ [[元号の選択]] ]]
[150]
[CITE[三国史記]]
は[[新羅]]の[[元号]]の記述もありますが、
古い時代は[[元号]]がなく、
新しい時代は[[唐の元号]]を使っているため、
全体を一貫して記述できるのは[[即位紀年]]だけです。
[[改元]]と代替わりが必ずしも同期していないので、
[[本紀]]を書きやすいのも[[即位紀年]]です。
そのため[[即位紀年]]による歴史記述が行われ、
以後も踏襲したということかもしれません。
[1354]
[[即位紀年]]がいつから始まったのかは定かではありませんが、
古くからの[VAR[誰々]]王の[VAR[何]]年に[VAR[何]]があったという伝承が後に記録され、
史書として現在に伝わっているものと推測されます。
[SRC[>>7863 #page=9]]
[REFS[
-
[175]
[CITE[三国史記]]と高句麗、百済、新羅の紀年法
<https://data.suikawiki.org/tag/6101/graph?sequence=3938&sequence=3941&sequence=3952>
-
[182]
高麗の紀年法
<https://data.suikawiki.org/tag/1118/graph?sequence=4045&sequence=750%2B1118&sequence=1474%2B1118>
]REFS]
[151]
[[即位紀年]]は[[朝鮮史]]の記述で最も重要な[[紀年法]]であるにも関わらず、
その一覧表 (王の一覧、在位期間の表ではなく[[紀年法]]、[[元年]]の一覧表)
は案外[[ウェブ]]上に多くありません。
[155]
[[Chinese Text Project]] による一覧表:
[REFS[
- [154]
[CITE@en[[[新羅]] - Chinese Text Project]], [[Donald Sturgeon]], [TIME[2023-04-05T16:33:53.000Z]], [TIME[2023-05-03T03:20:01.028Z]] <https://ctext.org/datawiki.pl?if=en&res=19957>
- [152]
[CITE@en[[[高句麗]] - Chinese Text Project]], [[Donald Sturgeon]], [TIME[2023-04-05T16:33:53.000Z]], [TIME[2023-05-03T03:18:53.179Z]] <https://ctext.org/datawiki.pl?if=en&res=78660>
- [153]
[CITE@en[[[百濟]] - Chinese Text Project]], [[Donald Sturgeon]], [TIME[2023-04-05T16:33:53.000Z]], [TIME[2023-05-03T03:19:47.341Z]] <https://ctext.org/datawiki.pl?if=en&res=839760>
- [181]
[CITE@en[[[高麗]] - Chinese Text Project]], [[Donald Sturgeon]], [TIME[2023-04-05T16:33:53.000Z]], [TIME[2023-05-04T08:58:32.263Z]] <https://ctext.org/datawiki.pl?if=en&res=665318>
- [179]
[CITE@en[[[大朝鮮國]] - Chinese Text Project]], [[Donald Sturgeon]], [TIME[2023-04-05T16:33:53.000Z]], [TIME[2023-05-04T08:57:01.114Z]] <https://ctext.org/datawiki.pl?if=en&res=747216>
-- [180] [[大韓帝国]]を含まない
]REFS]
[1355]
[CITE[三国遺事]]や[[金石文]]に見られるように、
古くは[[即位紀年]]の[[元号名スロット]]には
([[諡号]]でなく)
王の実名を書いた例が多いです。
国民が王を親しんで呼んだ長年の習慣が表れています。
[SRC[>>7863]]
[275]
王の在位が何年間であるかと[[元年]]から数えて第何年であるかは、
数え方により一致したり一致しなかったりします。
両者は密接に関係するので [SRC[>>7866]]、厳格に区別されることもありますが、
混同されることや、意識的に同一視されることもあります。
それが[[即位紀年]]の混乱にも寄与していると示唆する資料もあります
[SRC[>>7864]]。
** 即位紀年の始まり
[359]
[CITE[三国史記]]
では[[新羅]]、
[[高句麗]]、
[[百済]]の建国から[[即位紀年]]を使っています。
[55]
[CITE[三国史記]]
の第2代[[新羅]]王[[南解次次雄]]の項には、
>繼父即位稱元。
とあり、[[即位紀年]]の[[称元]]が行われていたとしています。
更に[[踰年称元]]でないことについて注釈を加えています。 [SEE[ [[改元踰年問題]] ]]
[SRC[>>157]]
[360]
つまり[[即位紀年]]は三国の建国の頃から使われていたとするのが
[CITE[三国史記]]
の説ということになります。
[[中国]]では[[前漢]]の時代に当たりますから、
[[即位紀年]]が用いられたとしてもそう不思議でもありませんが、
他に確証はありません。
[361]
[[即位紀年]]の利用が史実であるかどうか (いつからが史実か)、
史実だとして[CITE[三国史記]]の説が正しいかどうかが問題となります。
(前提として、他の事績が史実かどうかもまた問題となります。)
[362]
[CITE[三国史記]]
(や他の史書)
はすべての[[王]]位継承が、前王の死去のほぼ同年に行われたとしていて、
[[即位紀年]]も非常に規則的に設定されています
(>>281)。
しかしこれは余りに整然としすぎています。
実際には死去の翌年に即位がずれ込むことや、
空位年があった可能性もあります。
[SRC[>>7866]]
[363]
[[大正時代]]の[[日本]]の[[朝鮮史]]研究者[RUBYB[[[小田省吾]]][[TIME[1871]]-[TIME[1953]]]]は、
[CITE[日本書紀]]
の朝鮮関係記事との比較からこれを検討しました。
それによると、
前王の死去後、新王の即位までの年数を確定させられる情報は検出できませんでした。
しかし両者の死去や即位の記述の不一致例の比較により、
[CITE[三国史記]]
編者もすべての王の在位期間を知り得たわけではなく、
史料がない場合も便宜上死去と即位元年を同一年に設定して整理したのではないかと推定しました。
[SRC[>>7866]]
[REFS[
- [157]
[CITE@zh[[[三國史記]]/卷01 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2023-04-18T09:00:37.000Z]], [TIME[2023-05-03T07:09:56.940Z]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%8F%B2%E8%A8%98%2F%E5%8D%B701>
]REFS]
** 即位紀年の数え方の違い
[195]
[[即位紀年]]は、
[[即位]]の当年を[[元年]]とする流儀と、
[[即位]]の翌年を[[元年]]とする流儀があります。
どちらを採用するべきかはどこの国でも問題となっています。
[SEE[ [[改元踰年問題]] ]]
[235]
[[朝鮮半島]]の歴代王朝でも、
この2つの数え方の[[即位紀年]]が行われてきました。
気づかないで誤って考察してしまう研究者もいるくらいで
[SRC[>>7864]]、
資料・論文ごとに違っていることがあり、要注意です。
-*-*-
[281]
[CITE[三国史記]]
の三国の王の[[即位紀年]]を詳しく調べると、
次の通りです。
[SRC[>>7866]]
- [282]
総計 115 (新羅 56、 高句麗 28、百済 31)
--
[283]
始祖 3
--
[284]
その他 112
---
[285]
一、 死去年を元年とする 109
----
[286]
1 死去の翌月から元年とする 24
-----
[287]
第一種
死去の翌月から元年とすること明らかで、かつ元年を紀するもの 12
-----
[288]
第二種
死去の翌月から元年とすること明らかで、しかし元年を紀しないもの 12
----
[289]
2 死去の当月から元年とする 10
-----
[290]
第一種
明らかに死去の月に新王元年と紀するもの 3
-----
[291] 第二種
断じて死去の月に元を称するとみなすべきもの 7
----
[292]
3 翌月から元年としたか当月から元年としたか未詳であるものの、年表により当年から元年としたとわかるもの
75
-----
[293]
甲 本文に元年を明記するもの
------
[294]
第一種 月を紀して元を称するものの、死去の月から3ヶ月以上たつもの
6
------
[295]
第二種 月を紀して元を称するものの、死去の月を欠くもの
2
------
[296]
第三種 月を紀せずに元を称して、死去の月は書いたもの
5
-----
[297]
乙 本文に元年を明記しないもの
------
[298]
第四種 新王の紀事を月を掲げて死去年内に書き、かつ死去の月も書くもの
8
------
[299]
第五種 新王の紀事を月を掲げて死去年内に書き、しかし死去の月を欠くもの
1
------
[300]
第六種 死去年月を書き、新王の紀事を月を掲げずに死去年内に書くもの
6
-----
[301]
丙 まったく元年の紀事を欠き、2年以後の紀事のみあるもの
44
-----
[302]
丁 在位中まったく紀事のないもの
3
---
[303]
二、死去翌年を元年とするもの
3
[196]
(各国の初代を除き)
[[即位]]の翌月から[[元年]]としているように見えます。
ただし、[[新羅]]の2王と[[高句麗]]の1王は、
前王の死去が12月のため、
結果として翌年が[[元年]]となっています。
[SRC[>>7864]]
[364]
例外の3件 (>>303) はいずれも12月に前王が死去していますが、
12月に死去した王は他にもいて、同年が新王の[[元年]]となっています。
つまり、必ず死去翌月を[[元年]]にする規則ともいえないのです。
12月に前王が死去した王位継承を詳しく見ると、
次の通りです
[SRC[>>7866]]。
- [365] 甲種 7 ([[新羅]] 2, [[高句麗]] 2, [[百済]] 3)
-- [366] 前王の死去が12月と書かれていますが、日は書かれていません。
-- [367] 新王の元年は前王の死去年です。
-- [368] 新王の元年に記事はありません。
-- [377] >>291 に該当します。
- [369] 乙種 2 ([[新羅]] 2)
-- [370] 前王の死去が12月の最終日の前日です。
-- [371] 新王の元年は死去の翌年です。
-- [372] 新王の元年に記事があります。
-- [378] >>303 に含まれます。
- [373] 丙種 1 ([[高句麗]] 1 : [[長寿王]]/[[文咨明王]])
-- [374] 前王の死去が12月と書かれていますが、日は書かれていません。
-- [375] 新王の元年は死去の翌年です。
-- [376] 新王の元年に記事があります。
-- [379] >>303 に含まれます。
[380]
実は、
旧王が死去した月に新王の元年の記事がある例が、
[[新羅]]に3件あります。
[SRC[>>7866]]
(>>290 に該当)
- [381] 善徳王17年春1月8日没 → 真徳王元年1月17日
- [382] 武烈王8年6月没 → 文武王元年6月
- [383] 景哀王4年冬11月没 → 敬順王元年11月
[386]
このような
[CITE[三国史記]]
の[[元年]]の決定方法 (称元法) については、
[[日本]]の[[明治時代]]から[[昭和時代]]の朝鮮史研究者が分析しました。
-
[384]
[[今西竜]]は、
12月死去の例外3件も含め、死去の翌月を元年としていると判断しました。
[SRC[>>7864]]
-
[385]
[[小田省吾]]は、次のように判断しました。
[SRC[>>7866]]
-- [387] 死去と同年を元年とするのが原則で、
-- [388] 同年中においては死去の翌月から元年とし、
-- [389] 特殊の理由があるときは死去の同月中から元年とする
--
[NOTE[
[390]
実はほとんどの王位継承が死去の翌月の記事を欠いているので、
翌月を元年としている、とする従来説は成り立たない [SRC[>>7867]]
ため、「翌月」ではなく「同年」が第1原則だと主張しました。
[391]
そして、従来「翌月」と「翌年」が対比されてきたのは不適切で、
「同年」と「翌年」の対比とするべきだと指摘しました。
[SRC[>>7867]]
]NOTE]
-
[395]
[[藤田亮策]]は、
[[小田省吾]]の成果を大筋において認めながらも、
意識的に翌月から[[元年]]とした形跡は見られないこと、
翌月にしなければならない理由が見当たらないことを指摘し、
即位以後同月の記事が少ないため翌月以後が[[元年]]に見えているだけで、
実際は新王の即位からが[[元年]]だったと推測しました。
[SRC[>>7863]]
[396]
[[藤田亮策]]の説が現在も定説化していると考えられます。
後の時代の慣習に引きずられて「翌年」「翌月」のような幻の規則性が見えてしまっていただけで、
なんのことはない、「新王のはじまりからが新王の元年」
という素朴な原則ですべて例外なく説明できるというわけです。
[197]
[CITE[東国通鑑]]
[WEAK[([TIME[西暦1484年][1484]]成立)]]
の[[三国時代]]の[[即位紀年]]は、
[CITE[三国史記]]
の方法を踏襲しています。
ただし前王が12月に死去した3王のうち、
[[高句麗]]の1王だけ違いがあります。
[SRC[>>7864]]
-
[198]
[[高句麗]]の[[長寿王]]は[TIME[西暦491年][491]]12月に死去しました。
--
[217]
[CITE[三国史記]]
は[TIME[西暦492年][492]]を[[文咨明王]]の[[元年]]としています。
[SRC[>>7864]]
([TIME[y~3928]])
--
[218]
ところが
[CITE[東国通鑑]]
は[TIME[西暦491年][491]]を[[元年]]としています。
[SRC[>>7864]]
([TIME[y~4082]])
[NOTE[
[199]
[[今西竜]]は、
[CITE[東国通鑑]]
の他が[[踰月称元法]]であるのに対し、
この1例だけ[[踰日称元法]]とでもいうべきものだとしています。
[SRC[>>7864]]
[219]
実際には
[CITE[東国通鑑]]
にはこの年が長寿王79年かつ文咨王元年と書かれているだけで、
[[年]]内の[[日付]]は書いていないので [SRC[>>200]]、
「踰日称元」
だと断じるのは言いすぎです。
]NOTE]
--
[392]
丙種 (>>373) に当たります。
--
[394]
[CITE[東史綱目]]
は、
[CITE[東国通鑑]]
の方針を踏襲すると書いている [SEE[ [[改元踰年問題]] ]] にも関わらず、
これについては
[CITE[三国史記]]
方式を採っていました。
[SRC[>>7867]]
[393]
[[今西竜]]は、
関係する
[CITE[三国史記]]
記事に不審な点があることから、
[CITE[三国史記]]
が死去翌年を[[元年]]としたのは誤りで、
本来は甲種 (>>365) となるべきものだったと判定しました。
[CITE[東国通鑑]]
の変更も、同じように判断したためだとしました。
[SRC[>>7867]]
-*-*-
[279]
[[高麗]]時代には[[即位]]当年を[[元年]]とする数え方がまだ一般的だったと考えられています。
[SRC[>>7866]]
[280]
ところが[[朱子学]]の流行により[[即位]]翌年を[[元年]]とする数え方が正統とされるようになり、
史書の編纂にも使われるようになりました。
[SRC[>>7866]]
[SEE[ [[改元踰年問題]] ]]
[201]
[[李氏朝鮮]]国の[[儒学]]者[RUBYB[[[権近]]][[TIME[1352]]-[TIME[1409]]]]の編著
[CITE[東国史略]]
[WEAK[([TIME[西暦1403年][1403]]成立)]]
や、
[[李氏朝鮮]]国の[[儒学]]者[RUBYB[[[洪汝河]]][[TIME[1620]]-[TIME[1674]]]]の
[CITE[木斎家塾東国通鑑提綱]]
は、
[[儒教]]的な立場から、
[[三国時代]]の各[[王]]の[[即位紀年]]も即位の翌年を[[元年]]としました。
[SRC[>>7864]]
[202]
それ以後の歴史書や歴史の記述は、
[CITE[三国史記]]
や
[CITE[東国通鑑]]
の方式が一般的でありながらも、
即位翌年の方式も使われています。
[203]
[[高麗]]および[[李氏朝鮮]]の時代については、
諸書とも[[即位]]の翌年を[[元年]]としています。
[SRC[>>7864]]
ただし、特殊例が次の通り王朝初代計2件、[[高麗]]に2件、
[[李氏朝鮮]]に3件あります。
- [220]
[[高麗]]の初代王[[太祖]]は、
[[後高句麗]]の王[[弓裔]]を追放して王位に就きました。
即位と同時に[[天授]]と[[改元]]しており、
[[即位紀年]]もそれと同時に[[元年]]になっています。
-
[204]
[[高麗]]の[[文宗]]の死後即位した[[順宗]]は、同年中に死去し、
[[宣宗]]が[[即位]]しました。
[TIME[文宗37(1083)年癸亥][1083]] ([TIME[y~4031]])
の翌年が[TIME[宣宗元(1084)年甲子][1084]] ([TIME[y~4047]]) とすると、
[[順宗]]の年がなくなってしまいます。
--
[208]
[CITE[高麗史]]
[WEAK[([TIME[西暦1451年][1451]]成立)]]
や
[CITE[東国通鑑]]
[WEAK[([TIME[西暦1484年][1484]]成立)]]
は実際そのような紀年で、
章構成上も[[順宗]]は[[文宗]]の末尾に書かれています
[SRC[>>215, >>207, >>7864]]。
--
[205]
それとは別に、
[TIME[順宗元(1083)年][1083]] ([TIME[y~4051]])
が使われることもあります。
[SRC[>>181, >>206]]
-
[209]
[[高麗]]末期に[[辛禑]]が廃されて即位した[[辛昌]]は、
その翌年に早くも配され、
[[恭讓王]]が即位しました。
--
[210]
[TIME[辛禑14(1338)年戊辰][1388]] ([TIME[y~4040]])
の翌年は本来[[辛昌]]の[[元年]]であるはずですが、
[CITE[東国通鑑]]
では[[辛昌]]の章がなく、
[TIME[恭讓王元(1389)年己巳][1389]] ([TIME[y~4028]])
となっています。
[[辛昌]]の記事は前後の王の章に書かれています。
[SRC[>>211, >>7864]]
--
[212]
[CITE[高麗史]]
では、
[TIME[辛禑14(1338)年戊辰][1388]] ([TIME[y~4040]])
と[TIME[恭讓王元(1389)年己巳][1389]] ([TIME[y~4028]])
の間に[TIME[辛昌元(1389)年][1389]] ([TIME[y~4039]])
があります。
[[恭讓王]]の即位前紀には辛昌元年とあり、
即位してからが恭讓王元年になっています。
[CITE[高麗史]]
の他の王とここだけ構成が違っています。
[SRC[>>214, >>213]]
--
[221]
その他でも辛昌元年 ([TIME[y~4039]]) が使われることがあります。
[SRC[>>181]]
--
[NOTE[
[216]
[[辛禑]]と[[辛昌]]は正統な王と認められておらず、
[CITE[高麗史]]
でも
[CITE[東国通鑑]]
でも他の王と違う扱いをされています。
紀年にもその特殊性が表れているのです。
]NOTE]
-
[222]
[[高麗]]から[[李氏朝鮮]]への交替は[[禅譲]]でした。
その[[即位]]からが新王の[[元年]]とされています。
[SRC[>>7864]]
-
[227]
[[李氏朝鮮]]の[[端宗]] ([[魯山君]]) は[TIME[3(1455)年乙亥][1455]] ([TIME[y~4074]])
に[[廃位]]されました。
--
[230]
その当年が[TIME[世祖元(1455)年乙亥][1455]] ([TIME[y~4053]])
とされます。
[SRC[>>7864]]
---
[233]
[CITE[朝鮮王朝実録]]
などがこの数え方を採用しています。
[SRC[>>234, >>179]]
--
[231]
[[端宗]]はその後[TIME[粛宗24(1698)年戊寅][1698]]に名誉回復されました。
[HISTORY[
粛宗2年戊寅とする
[SRC[>>7864]]
のは誤り。
]HISTORY]
---
[232]
それ以後[TIME[世祖元(1456)年丙子][1456]] とする数え方 ([TIME[y~4083]])
が行われるようになりました。
[SRC[>>7864]]
---
[397]
[[李氏朝鮮]]時代の書物には、読者が朱筆で訂正しているものもあります。
[SRC[>>7864]]
-
[223]
[[李氏朝鮮]]の[[燕山君]]は[TIME[13(1506)年][1506]] ([TIME[y~4073]])
に[[廃位]]されました。
--
[224]
その当年が[TIME[中宗元(1506)年][1506]] ([TIME[y~4054]]) とされます。
[SRC[>>7864]]
--
[225]
その翌年を[TIME[中宗元(1507)年][1507]]とする数え方 ([TIME[y~4078]]) もあります。
[SRC[>>179]]
-
[226]
[[李氏朝鮮]]の[[光海君]]は[TIME[15(1623)年][1623]] ([TIME[y~4057]])
に[[廃位]]されました。
--
[228]
その当年が[TIME[仁祖元(1623)年][1623]] ([TIME[y~4056]]) とされます。
[SRC[>>7864]]
--
[229]
その翌年を[TIME[仁祖元(1624)年][1624]]とする数え方 ([TIME[y~4079]]) もあります。
[SRC[>>179]]
[REFS[
-
[215] [CITE@zh[[[高麗史]]/卷十 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2023-04-21T12:55:44.000Z]], [TIME[2023-05-05T13:03:18.640Z]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E5%8F%B2/%E5%8D%B7%E5%8D%81>
--
[214]
[CITE@zh[[[高麗史]]/卷四十五 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2023-04-21T12:58:20.000Z]], [TIME[2023-05-05T13:01:05.104Z]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E5%8F%B2/%E5%8D%B7%E5%9B%9B%E5%8D%81%E4%BA%94>
-
[213]
[CITE@zh[[[高麗史]]/卷一百三十七 - [[维基文库]],自由的图书馆]], [TIME[2023-04-21T12:57:38.000Z]], [TIME[2023-05-05T12:58:03.684Z]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E5%8F%B2/%E5%8D%B7%E4%B8%80%E7%99%BE%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%83#%E8%BE%9B%E6%98%8C>
-
[200]
[CITE@ja-JP[[[朝鮮群書大系]] 続 第3輯]], [[朝鮮古書刊行会]], [TIME[明治45][1912]], [TIME[2023-04-25T10:11:41.000Z]], [TIME[2023-05-05T09:33:18.518Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1088211/1/78>
--
[207]
[CITE@ja-JP[[[朝鮮群書大系]] 続 第3輯]], [[朝鮮古書刊行会]], [TIME[明治45][1912]], [TIME[2023-04-25T10:11:41.000Z]], [TIME[2023-05-05T12:46:00.660Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1088211/1/281>
--
[211]
[CITE@ja-JP[[[朝鮮群書大系]] 続 第5輯]], [[朝鮮古書刊行会]], [TIME[明治45][1912]], [TIME[2023-04-25T10:11:41.000Z]], [TIME[2023-05-05T12:54:00.006Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1088226/1/251>
-
[234]
[CITE@zh[[[朝鮮王朝實錄]]/世祖實錄/元年 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2023-04-22T01:33:31.000Z]], [TIME[2023-05-06T01:55:53.337Z]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E5%AF%A6%E9%8C%84/%E4%B8%96%E7%A5%96%E5%AF%A6%E9%8C%84/%E5%85%83%E5%B9%B4>
- [7864]
[DFN[[CITE@ja[[V[朝󠄃鮮に於ける國王[BR[]]在位の稱元法]]]]]],
[[[V[今西龍]]]],
[V[[TIME[明治四十五年五月五日][1912-05-05]]稿]],
[TIME[2019-05-17 11:49:45 +09:00]]
<https://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3921&item_no=1&page_id=25&block_id=47>
-- <https://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=3921&file_id=22&file_no=1>
--
[442]
[CITE@ja-JP[高麗及李朝史研究]], [[今西竜, 今西春秋]], [TIME[1974]], [TIME[2023-04-25T10:11:41.000Z]], [TIME[2023-05-07T07:07:37.905Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12172160/1/101> (要登録)
-
[194]
[CITE@ja[[V[三國史󠄃記の稱元法並に高麗以前󠄁[BR[]]稱元法の硏究]]]],
[[[V[小田省吾]]]]
-- [7866] [CITE@ja[三国史記の称元法並に高麗以前称元法の研究(上)]],
[[小田省吾]],
[TIME[大正九年五月][1920-05]]
([TIME[2019-05-19 10:00:16 +09:00]])
<https://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4090&item_no=1&page_id=25&block_id=47>
--- <https://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=4090&file_id=22&file_no=1>
-- [7867] [CITE@ja[三国史記の称元法並に高麗以前称元法の研究(下)]],
[[小田省吾]],
[TIME[大正九年六月][1920-06]]
([TIME[2019-05-19 10:01:10 +09:00]])
<https://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4095&item_no=1&page_id=25&block_id=47>
--- <https://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=4095&file_id=22&file_no=1>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[206]
[TIME[2023-05-05T12:42:05.200Z]]
<http://221.214.181.176:8083/cache/ABE4701535F8A39C9FEE7879867CBDE5.pdf#page=212>
]FIGCAPTION]
>辽太康九年正是高麗順宗元年(1083 年)。
]FIG]
]REFS]
[243]
[[高麗]]や[[李氏朝鮮]]の時代に、
史書とは違って[[即位]]の当年を[[元年]]とした数え方の用例が見つかっています。
文献史料だけでなく[[金石文]]にもよく見られ、
[[即位]]当年を[[元年]]とする数え方が当時用いられたことは疑いありません
[SRC[>>7866]]。
[ITEMS[ [[日時事例]]
-
[305]
[CITE[三国遺事]]所収[CITE(.label)[駕洛国記]]
--
[306]
「[SNIP[]]自建安四年己卯始造。逮[DATA(.text)[今上御圖三十一載大康二年丙辰]]。凡八百七十八年。[SNIP[]]」
[SRC[>>304, >>7866]]
---
[307]
[TIME[文宗30(1076)年丙辰][1076]] ([TIME[y~4031]])
[SRC[>>7866]]
---
[308]
[TIME[文宗31(1076)年丙辰][1076]] ([TIME[y~4088]])
-
[508]
[DATA(.label)[[CITE[三国遺事]]所引海東名賢安弘撰東都成立記]]
--
[509]
「[DATA(.text)[[SNIP[]]現宗十三年辛酉[SNIP[]]]]」
[SRC[>>507]]
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[510] [TIME[高麗顕宗13(1021)年辛酉][1021]] ([TIME[y~4089]])
---
[511] [TIME[高麗顕宗12(1021)年辛酉][1021]] ([TIME[y~4042]])
-
[445]
[[光徳]], [[光宗]]即位紀年
[SEE[ [[光徳]] ]]
--
[446]
[[即位]]翌年を[[光徳]]の[[元年]]とする[CITE[高麗史]]と違って、
[[即位]]当年を[[元年]]とする金石文が発見されています。
--
[451]
同様に疑われる[[即位紀年]]の用例が発見されています。
-
[310]
[CITE(.label)[真楽公重修清平山文殊院記]], [[金富轍]]
--
[311]
「[DATA(.text)[[SNIP[]] 太祖即位之十八年歳在乙未[SNIP[]]是時後唐清泰二年也。]]]]」
[SRC[>>327 /202]]
--- [322]
[TIME[太祖18(935)年乙未][935]] ([TIME[y~4045]])
[SRC[>>7866]]
--- [313] [TIME[清泰2(935)年乙未][935]] ([TIME[y~417]])
--
[312]
「[DATA(.text)[至光廟二十四年、[SNIP[]]時大宋開寳六年也。[SNIP[]]]]」
[SRC[>>327 /202]]
--- [325]
[TIME[光宗24(973)年癸酉][973]] ([TIME[y~4044]])?
---
[326]
[TIME[开宝6(973)年癸酉][973]] ([TIME[y~436]])
---
[315]
即位年を元年と数えて23年の誤りか [SRC[>>7866]]
とされますが、
自説に都合よく誤記とみなすのは慎重であるべきでしょう。
----[447]
しかし[[光徳]]の[[元号]]の[[1年ずれ]]問題は注目に値します。
[SEE[ [[光徳]] ]]
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[314]
「[DATA(.text)[[SNIP[]]文廟二十三年歳在戊申[SNIP[]]]]」
[SRC[>>327 /202]]
---
[324]
[TIME[文宗22(1068)年戊申][1068]] ([TIME[y~4031]])
---
[323]
[TIME[文宗23(1068)年戊申][1068]] ([TIME[y~4088]])
[SRC[>>7866]]
--
[316]
「[DATA(.text)[[SNIP[]]時煕寧元年[SNIP[]]]]」
[SRC[>>327 /202]]
--
[317]
「[DATA(.text)[[SNIP[]]元豊六年[SNIP[]]]]」
[SRC[>>327 /202]]
--
[318]
「[DATA(.text)[[SNIP[]]元祐四年[SNIP[]]]]」
[SRC[>>327 /202]]
--
[319]
「[DATA(.text)[[SNIP[]]政和七年[SNIP[]]]]」
[SRC[>>327 /202]]
--
[320]
「[DATA(.text)[[SNIP[]]宣和三年[SNIP[]]]]」
[SRC[>>327 /202]]
--
[321]
「[DATA(.text)[大宋建炎四年庚戌十一月日]]」
[SRC[>>327 /202]]
-
[328]
[CITE(.label)[奉先弘慶寺碣記]]
「[DATA(.text)[聖上御囿之十八載太平紀暦之第六年夏四月 日[SNIP[]]]]」
[SRC[>>327 /171]]
--
[329]
御囿は御圖と同義。
[SRC[>>7866]]
--
[330]
[TIME[太平6(1026)年丙寅][1026]] ([TIME[y~1323]])
--
[331]
[TIME[㬎宗17(1026)年丙寅][1026]] ([TIME[y~4042]])
--
[332]
[TIME[㬎宗18(1026)年丙寅][1026]] ([TIME[y~4089]])
[SRC[>>7866]]
--
[SEE[ [[紀曆]] ]]
-
[1400]
[DATA(.label)[尹稷崇墓誌]]
--
[1401]
「[DATA(.text)[粛宗即政三年]]上命書舎人尹潅等使入宋」
[SRC[>>7863 #page=17]]
---[TIME[1079]]
-
[309]
[CITE(.label)[金山寺慧徳王師碑銘]]
「[SNIP[]]是歳文宗昇遐、順宗嗣位、未幾而又崩、即[DATA(.text)[宣宗承纂之元年]]也[SNIP[]]」
[SRC[>>327 /189]]
-
[971]
[DATA(.label)[霊通寺大覚碑]],
[TIME(.published)[高麗宣宗元(1084)年][1084]]
--
[972]
「[DATA(.label)[至宣王在位第二年是宋元豐七年春正月]]」
[SRC[>>7862]]
---[974] [TIME[高麗宣宗1(1084)年'''甲子'''][1084]] ([TIME[y~4047]])
---[975] [TIME[高麗宣宗'''2'''(1085)年乙丑][1085]] ([TIME[y~4047]])
---[977] [TIME[高麗宣王'''2'''(1084)年'''甲子'''][1084]] ([TIME[y~4090]])
--- [978] [TIME(.value)[宋元豊7(1084)年'''甲子'''][1084]] ([TIME[y~117]])
-
[1394]
[DATA(.label)[文殊院重修碑]]
--
[1395]
「[DATA(.text)[文廟廿三年歳在戊申[SNIP[]]時煕元年也]]」
[SRC[>>7863 #page=17]]
---
[1396] [TIME(.value)[西暦1086年][1086]]
-
[333]
[CITE(.label)[雲門寺円応国師碑銘]],
皇紀1806年(推定)
--
[334]
「[DATA(.text)[我宣王二年宋神宗元豊七年甲子[SNIP[]]]]」
[SRC[>>327 /214]]
---
[337]
[TIME[元豊7(1084)年甲子][1084]]
---
[342] [TIME[宣宗1(1084)年甲子][1084]] ([TIME[y~4047]])
---
[343] [TIME[宣宗2(1084)年甲子][1084]] ([TIME[y~4090]])
[SRC[>>7866]]
--
[335]
「[DATA(.text)[我粛王四年宋紹聖五年戊寅[SNIP[]]]]」
[SRC[>>327 /214]]
---
[338] [TIME[绍圣5(1098)年戊寅][1098]]
---
[340] [TIME[肃宗3(1098)年戊寅][1098]] ([TIME[y~4049]])
---
[344] [TIME[肃宗4(1098)年戊寅][1098]] ([TIME[y~4091]])
[SRC[>>7866]]
--
[336]
「[DATA(.text)[我睿王元年宋崇寧四年[SNIP[]]]]」
[SRC[>>327 /214]]
---
[339]
[TIME[崇宁4(1105)年乙酉][1105]]
---
[341] [TIME[睿宗0(1105)年乙酉][1105]] ([TIME[y~4037]])
---
[345] [TIME[睿宗1(1105)年乙酉][1105]] ([TIME[y~4092]])
[SRC[>>7866]]
-
[1397]
[DATA(.label)[文公元墓誌]]
--
[1398]
「[DATA(.text)[裕陵在宥之十祀甲午]]」
[SRC[>>7863 #page=17]]
---
[1399] [TIME[西暦1114年][1114]]
-
[1358]
[DATA(.label)[霊通寺大覚国師碑]]
--
[1359]
「[DATA(.text)[上嗣位之四年乙巳秋七月庚午]]」
[SRC[>>7863 #page=10]]
---
[1360]
[CITE[高麗史]]仁宗3年乙巳
-
[1361]
[DATA(.label)[僊鳳寺大覚国師碑]]
--
[1362]
「[DATA(.text)[上御宇十年歳在題淵献壮月七日]]」
[SRC[>>7863 #page=10]]
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[1363]
[CITE[高麗史]]仁宗9年辛亥
-
[1364]
[DATA(.label)[寧国寺円覚碑]]
--
[1365]
「[DATA(.text)[仁廟践祚十一年壬子]]」
[SRC[>>7863 #page=10]]
---
[1366]
[CITE[高麗史]]仁宗10年
-
[1402]
[DATA(.label)[朴景軾墓誌]]
--
[1404]
「[DATA(.text)[今上御宇之八載貞元二年甲戌也]]」
[SRC[>>7863 #page=17]]
---
[1405]
[CITE[高麗史]]毅宗8年甲戌
-
[346]
[CITE(.label)[宝鏡寺円真国師碑銘]]
--
[347]
「[DATA(.text)[歳在癸酉]] 今上践祚継述先志以[DATA(.text)[二年甲戌]][SNIP[]]」
[SRC[>>244 /265 左]]
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[348] [TIME[康宗2(1213)年癸酉][1213]] [SRC[>>7866]]
---
[349] [TIME[高宗1(1214)年甲戌][1214]] ([TIME[y~4050]])
---
[350] [TIME[高宗2(1214)年甲戌][1214]] ([TIME[y~4093]])
-[1375]
[DATA(.label)[瑩源寺宝鑑塔碑]]
--
[1376]
「[DATA(.text)[忠憲王三十七年辛亥七月二十七日]]」
[SRC[>>7863 #page=10]]
---
[1384] [TIME[高宗'''37'''(1250)年庚戌][1250]] ([TIME[y~4050]])
---
[1380] [TIME[高宗38(1251)年'''辛亥'''][1251]] ([TIME[y~4050]])
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[1383] [TIME[高宗'''37'''(1249)年己酉][1249]] ([TIME[y~4093]])
---
[1382] [TIME[高宗38(1250)年庚戌][1250]] ([TIME[y~4093]])
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[1381] [TIME[高宗39(1251)年'''辛亥'''][1251]] ([TIME[y~4093]])
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[1406]
[DATA(.label)[金坵墓誌]]
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[1407]